Gentili amici giapponesi vi presentiamo un interessante resoconto del Festival della Prefettura di Saga scritto dalla nostra bravissima Junko Kataoka. Buona lettura!
佐賀県フェスティバル in ミラノ・エキスポ
~有田焼創業400年事業「エピソード2」~
「皆さ~ん、有田焼って知っていますか~?」
「Non tanto!! 聞いたことあるけど、あんまり知りませ~ん!」
2015年5月31日から6月2日にかけての三日間、ミラノ万博の日本館イベント会場において佐賀県フェスティバル「ARITA PORCELAIN PARK in MILANO BY SAGA PREFECTURE」が行われた。その開催式における冒頭シーンである。
司会者がイタリア語で観客に向かって言う。
「では本日は皆さんに、有田焼をよ~く知って帰っていただきましょう!」
有田焼は、言わずと知れた、佐賀県が誇る日本の代表的な磁器である。1616年、九州の北西部に位置する肥前国(現在の佐賀県)の有田において、磁器の原料である陶石が発見された。「泉山」というその山は、その名が示すとおり人々に至福をもたらす泉となった。今ではひと山のほとんどが掘り尽くされたと言われる泉山陶石場の姿は奇観である。「イタリアと日本には同じようなストーリーがここかしこにある」と日頃から感じている私だが、やはり今回も、トスカーナ州カッラーラの かの有名な奇妙な形の山に思いを馳せた。古代ローマ時代より白大理石の産地として知られ、ミケランジェロの作品などに石材を提供して来た山である。
来年の2016年は、有田で宝の山が発見され日本初の磁器が生産されるようになって400年目となる。ちなみにこの1616年というのは、ドイツのマイセンが創業するなんと100年も前のことだ。そして、江戸時代後期に日本各地で磁器製品が作られるようになるまでは、有田は日本で唯一の磁器生産地であった。有田焼が17~18世紀にヨーロッパの王侯貴族にこよなく愛されたことは、日本文化を愛するヨーロッパ人にはよく知られている。鎖国(1639~1854年)の間にも通商関係にあったオランダの東インド会社の手によって有田焼は海をわたり、遠く地球の裏側に徐々に広まって行った(海を渡った有田焼は実に何百万個にもなるという)。
今回の佐賀県フェスティバルの会場で私は、「有田焼創業400年事業推進グループ」関係者、「有田窯業大学校」関係者など多くの方々から、大変貴重で興味深い話を聞かせていただくことができた。有田焼がヨーロッパで権勢を誇っていた当時、ヨーロッパ人から直々にデザインの注文も受けていた。イニシャルを入れてほしいと言われれば、当時の絵付け職人はもちろんアルファベットなど知らないから、単なるデザインだと思って描いていたと想像される。注文されたものを納品して長い時が経ち、いつの日か、ベースの有田焼に細工が施されてシャンデリアなどになって日本に戻ってきたものもあるという。実に感慨深い。言葉も文化も、何もかもにおいて気の遠くなるような距離の中で、当時の異国の職人達は一つのものを仕上げるために知らぬ間に協力し合っていたわけだ。遠く離れていても細部にわたって瞬時に打ち合わせができる現在の世の中でなら、仕上げの瞬間さえも共有できるであろう。それに比して、かつての時はなんとゆったり流れていたことか。それからわずかに400年しか経っていないのに、人間の時間の観念を説明するにふさわしい言葉は「悠久」から、「刻一刻」に変化した。
そして、「刻一刻」の時代だからこそできることがある。有田焼は、創業400年記念事業として、これまでの400年間に培ってきた確固とした「エピソード1」の上に、「エピソード2」の新時代を今、築き始める。日本だけでなく世界中の新進デザイナーのデザイン、若い世代のポップな感覚を取り入れ、斬新でグローバルな目をもって有田焼を世界に発信していこうというものだ。
有田焼が初めて万国博覧会にお目見えしたのは1867年のパリ博に於いてであった。また、1900年開催の同じくパリ万博でメダーユ・ドール(最高名誉賞)を受賞したことは、知る人ぞ知るエピソードだ。17~18世紀に最高の品質の磁器をヨーロッパに普及させ、有田焼は栄華を極めたが、欧州における磁器生産技術の確立や幕府の輸出品制限などにより、最終的に1757年を最後に輸出は終了した。それ以降、日本国内向けの生産は続けられるものの量産品が多くなっていく。有田焼が再びヨーロッパで脚光を浴びるようになるまでには、ちょうど100年待たなければならなかった。
だが1867年、パリ万博に登場した有田焼はたちまち大変な注目を浴び、これを皮切りに貿易が再開される。1867年といえば明治政府樹立の前年であり、廃藩置県の4年も前のことだ。有田焼は佐賀藩から出展され(幕府の要請で佐賀藩は薩摩藩とともにパリ博に参加)、ヨーロッパにジャポニズム旋風が起こるきっかけを作った。
このように有田焼にとって万博は縁起が良い催しものである。1867年のパリ博では起死回生のきっかけを獲得、1900年開催のパリ博ではメダーユ・ドールを獲得、今回のミラノ博では、新しい有田焼「エピソード2」の世界への発信のきっかけを獲得したい。
2015年5月31日午後3時、いよいよ佐賀県フェスティバルの開始である。まずは、和太鼓グループ「不知火太鼓」による、6人からなる和太鼓アンサンブル。猛烈なテクニックでお客さんをぐいぐいと引き込む。セレモニーのトップを飾るにふさわしい、なんとも豪快なパフォーマンスで、アピール性抜群だ。観客の興味を、これから行われるセレモニーの舞台に引っ張り上げた。太鼓の大迫力の音が「来てほしい所に、思ったように来てくれる」とでも表現すればいいのか…。ちょっと調べてみると、やはり和太鼓には「その振動が人間の心臓の鼓動にシンクロすることによって人の気持ちを鼓舞する性質がある」らしいのだ。もちろんそれには大変なテクニックを要するはず。「不知火太鼓」は1978年に佐賀県の嬉野市塩田町にて結成され、ジュニアチームと大人チームからなる。大人チームは今回の万博出演のように幅広く活躍しており、ジュニアチームは 「日本太鼓ジュニアコンクール佐賀大会」で4年連続優勝、全国大会でも特別賞受賞。この筋金入りの強者どもは、ほんの小さな子供の頃から、この日本の伝統芸能の稽古に励んできているのだという。
そしてお次は、佐賀県知事による挨拶だ。実は、このセレモニーが始まる前に、挨拶文を読む練習をしておられる姿をお見かけし、なんと親しみのもてる知事さんだろうと思っていた。いよいよ本番、壇上に上がった知事は、やはりとんでもなくシンパーティコな(感じがいい、愉快な)方であった(ちなみに、この「シンパーティコ」という形容詞はイタリアでは最大の褒め言葉である)。「このたび佐賀県がミラノエキスポに参加できたことを誇りに思います。そして、かつてヨーロッパで栄華を極めた有田焼を、こうして現代のイタリアの皆さんにご紹介できることは大変に嬉しい」といった内容をイタリア語で話されたのである。最前列のイタリア人に発音を直してもらったりと、楽しい掛け合いがあり、観客との呼吸がぴったりの素敵なスピーチであった。短い時間でイタリア人のハートをしっかり、すっかりつかんでしまわれた様子に、私は舌を巻いた。イタリア人というのは、エスプリが効いた会話を評価する国民だ。関西人に似て、パフォーマンス性のあるコミュニケーション力を求めるところがあるのだ。たとえば、前々教皇の故ヨハネ・パウロ二世はポーランド人であったが、1978年10月16日に教皇に就任した日の演説で、「私のイタリア語がまちがっていたら、皆さん直して下さい」と民衆に向かって言い、大変な拍手喝采を浴びた。イタリア人に一番初めの日に受け入れられてから、ずっと愛され親しまれた教皇であった。佐賀県知事もこの日、イタリア人に大歓声をもって受け入れられた。
和太鼓による観客の心臓とのシンクロ、そして会場と一体になったスピーチで観客のハートをつかんだところで、いよいよおまちかねの鏡開き。清酒の大樽が舞台の上に置かれた。壇上に、先ほどの佐賀県知事、そして佐賀県議会議長、在ミラノ日本国総領事などの面々が上り、合計六人での鏡開きと相成った。司会者が会場全体に呼びかける。イベント会場の横のレストランで食事をしている皆さんにもイタリア語で呼びかける。
「さあ、みなさん。一緒に“よいしょ”と三回言って下さいね。ではいきますよ~。よいしょ、よいしょ、よいしょ~!」
この3回目の「よいしょ」で、六人の持つ木槌が一斉に振り下ろされ、大樽の鏡はみごとに割られた。酒は観客にふるまわれ、人々は、有田焼の上品でセンスの良い器に入った芳醇な銘酒を堪能した。雄大な自然を控えた佐賀の土地で生産される酒は、自然の豊かな風味を持っている。
楽しいオープニングセレモニーの最後に、もうひとつサプライズが用意されていた。佐賀県知事が観客席の一番前に座っていた二人のイタリア人を舞台に招き上げ、壇上に設置された「ガチャガチャ」の機械の前に誘導した。実はこれは今回のイベントのための特別企画であるらしい。とはいえ「ガチャガチャ」とはカプセルトイのこと、この場でカプセルトイとはいったい何事であろうか…。不審顔の二人は「ガチャガチャ」用のコインを手渡され、言われるままにレバーをひねる。すると…。出て来た丸いカプセルの中には、かわいらしい有田焼のミニチュア作品が入っていたのである!
今回、来る2016年の創業400周年を記念して2016個の「小さな有田焼」が用意された。中には学生が制作した様々な磁器アイテムが入っている。有田焼生産の職人のフィギュアをはじめ、ミニお雛様、キーホルダーやマグネット、箸置きや盃にミルクピッチャーなどなど。佐賀県立有田窯業大学校の学生の発案による企画だということだ。有田焼は江戸時代に分業制が確立していた。有田焼制作の各作業における職人の姿をフィギュアにして「有田焼の400年の歴史」を世界の人々に知ってもらおうというのが、この企画のメインコンセプトである。そして又、磁器によって制作されるアイテムの多様性と、それぞれの楽しみ方をも知ってもらいたい! このように、若い柔軟な頭から生まれ出てくるアイデアが、新時代「エピソード2」を推進していくのである。この日、会場の子供も大人も大喜びであった。
今回のミラノ万博も、かつてのパリ万博のように有田焼の新たな旅立ちを後押しすることができるのではないだろうか。有田焼が培って来た400年の「エピソード1」を土台にして、これから新しい時代が始まる。イタリアでも今、伝統文化が危機に瀕していることを、国民は知っている。この「エピソード2」の企画に、会場の観客は大いに共感したのではないだろうか、と思った。
日本人は、人の手のぬくもりの大切さ、つまり真心を知っている。日本人は真心を込めて仕事をする。日本をよく知るイタリア人は、そんな日本人を尊敬して止まないのである。
ミラノ在住文筆家/比較文化研究者
片岡 潤子